イタリアの旧市街を訪れると必ず目にする単語のひとつに Piazza があります。
おなかがすいているとピザ(Pizza)に見えてしまいそうですが、Piazza は「広場」という意味。
イタリアの旧市街には必ずかつて市民が集い、今なお人々が憩う街のシンボル的な広場があります。
今日は、中世の広場としてはヨーロッパで最大のもののひとつであり、独特な形で有名なシエナのカンポ広場とそこで繰り広げられる馬のレースパリオ、そしてもうひとつの広場メルカート広場についてお伝えします。
ふたつの広場のバックグラウンド
かつて金融街として栄えたシエナの中心は、現在のカンポ広場ではなく高台のカステルヴェッキオでした。
11世紀以降、シエナの街はどんどん拡張していくのですが、シエナの脆い土壌と狭い通りが入り組む街の構造が、広場(Piazza)建設のネックとなっていました。
カンポ広場の「カンポ」という名が文献に初めて登場するのは1169年。
そこには現在のカンポ広場とプブリコ宮殿裏のメルカート広場両方の敷地を含む丘についての記述があります。
シエナは ローマ時代にはすでに現在のカンポ広場の敷地を所有していたのですが、さらに現在のメルカート広場の土地も購入し、広場用の敷地を確保しました。
そして1193年、当時はひとつづきだった広場の敷地をふたつに分ける壁が造られます。
そうしてコンク貝の形をした広場がカンポ広場、そしてもう一方がメルカート広場となり、1270年まではお祭りや市場用に使われていました。
カンポ広場と数字9の関係
カンポ広場は周辺をプブリコ宮殿、マンジャの塔をはじめとする建物にぐるりと囲まれ、建物のデザインに統一感があるので、中世の赴きあふれる調和のとれた姿をしています。
広場はプブリコ宮殿側から見るとよく「すり鉢状」と表現される傾斜のついた形状で、雨水が広場の重心に口を開ける大きな排水口に流れ落ちるように設計されています。
広場の表面を見ると、放射状のラインが入ったデザインで、9つに分かれていますよね?
この9という数字、プブリコ宮殿で政治を行ったノーヴェ (the Nove/Nova) が9人制だったことに由来しているんです。
メモ:ノーヴェ
カンポ広場の建設以前の1115年、シエナを含む北イタリアの領主だったトスカーナ女伯 マティルデ・ディ・カノッサ が後継ぎなく亡くなると、領域内にあった都市は次々に自立していきます。
シエナも自立の波にもれず、領主亡き後政治を治めるようになったのが、 ノーヴェと呼ばれる9人制の評議委員会 です。
ちなみにマティルデ・ディ・カノッサは、教皇側とローマ帝国皇帝側のどちらが偉いかのいざこざの中で起こったカノッサの屈辱事件ゆかりの女伯です
さて、1286年にノーヴェによる政治が始まると、それに続きプブリコ宮殿と都市の中心となるカンポ広場の建設が始まります
カンポ広場より先にプブリコ宮殿が完成し、1310年にはノーヴェが宮殿に入り政治を行いました。
ですので、宮殿(Palazzo)という言葉だけ聞くと皇帝や貴族が住んでいたような響きですが、実際は市庁舎的な建物なのです。
プブリコ宮殿完成から約40年後の1349年、現在のカンポ広場の表面が仕上がりました。
ガイアの泉
カンポ広場のプブリコ宮殿の向かい側のプールのようなものがガイアの泉(Fonte Gaia)です。
シエナにゆかりのあるローマ神話の双子ロムルスとレムスを救った雌狼の像の口から水が流れています。
ガイアの泉に水をひく工事は8年かかり、1340年台に最初の泉が完成しました。
現在カンポ広場にあるガイアの泉は、1858年に取り替えられたレプリカです。
最初の泉のパネルは、以前はプブリコ宮殿内に展示されていましたが、現在はドゥオモの前にあるサンタ・マリア・デラ・スカラ(Santa Maria della Scala)で見ることができます。
現在の泉のデザインには入れられなかったロムルスとレムスの母親レア・シルウィアの彫刻も展示されていますよ。
パリオ
パリオ(Palio di Siena)は、カンポ広場で年に2回、7月2日(聖母マリアがシエーナに現れたとされる日)と8月16日(聖母の被昇天の翌日)に行われる裸馬のレースです。
シエナの旧市街はコントラーダと呼ばれる17の地区に分かれているのですが、パリオではその中から10コントラーダが競い、街中がお祭り騒ぎとなります。
レースの日はカンポ広場が競技場となり、馬は広場を3周、およそ1000mを走ります。
このレース、馬は抽選で決まり、ルールがないのがルールだそうで、ライバル騎手を突き落としたり、賄賂や裏工作などほぼなんでもアリなのだそうですよ。
Youtube で Palio と検索するとたくさんヒットしますが、ビデオを見ていると、 シエナ市民と観光客で広場はぎっしり 。
毎年誰かしら早々に落馬し、騎手なしの馬が駆け回っていたりします。
パリオって、福岡の博多祇園山笠と共通点大アリなんです。
パリオで 街が地区に分かれて競い合うところ、レースの前にパレードや伝統的なフラッグダンスが披露されたり、シエナ大聖堂でお祈りしたりするところなんて、山笠が「流」に分かれてタイムを競い合い、集団山見せや能が舞われたり、櫛田神社に奉納するのに似ています。
この大賑わいのパリオ、カンポ広場をぐるりと囲む建物のどこか一室から見下ろしてみたいものです。
もしパリオのチケットが取れないときは、レース3日前から前日までに行われる試走もなかなかの迫力だそうですよ。
シエナの街中で見かける謎の金具
シエナの旧市街では写真のような金具が街中のいたるところにあります。
一体何だかわかりますか?
これ、馬を繋いでおく金具なんです。
デザインも色々で、槍の形だったり、馬だったり。
上の写真はラマっぽい…それともラクダ?
ときどき面白いデザインがあるし、とてもシエナらしいので、散歩しながらチェックしてみてくださいね。
メルカート広場
プブリコ宮殿の裏にあるのがもうひとつの広場、メルカート広場(Piazza del Mercato)です。
かつては市場だったこの広場、現在は駐車場になっています。
中央の屋根つきの建物は19世紀に再建されたもので、大きな亀(Tartarugone) という呼び名で市民に親しまれています。
メルカート広場は高台にあるので、駐車場の端からシエナの南側を一望できますよ。
そして、メルカート広場からプブリコ宮殿を見ると、最上階が3本の柱のあるバルコニーのようになっていますね?
これは1348年に造られたロッジア(La loggia dei Nove)といいます。
ロッジアは9人の評議委員ノーヴェのための娯楽室です。お祭り以外では外出できなかったノーヴェの委員たちは、このロッジアで執務以外の時間を過ごしたそう。
それからもうひとつ、このプブリコ宮殿の地下は監獄でした。
中世時代にはこの監獄に投獄された死刑囚は、宮殿からこのメルカート広場を通り、Via dei Malcontenti、そして Giustizia 門へと歩いたという、ちょっと血なまぐさい歴史もあるんです。
現在はそのルートを辿ると緑豊かな庭園 Orto de’ Pecci がありますよ。
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Comune di Siena 2010のウエブサイトの下記ページをこの記事の参考にしました。
The Piazza del Campo
The Palazzo Pubblico
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